和歌山県衣料縫製品工業組合

歴史

縫製品製造業の歴史は徳川末期、
紀州藩が増殖という目的をもって足袋生産を奨励小禄軽輩の士分、
市井子女の内職として生産され、
紋羽足袋、孫六足袋などが諸国に移出し、
明治維新後もその製造が盛んとなり、日露戦争前後から足袋製造工業は漸次、
機械化され手工業家内工業の域を脱して生産能率があがると共に、
生産額が更に激増し販路拡張されて
大阪、京都、神戸、名古屋、中国、九州方面に移出した生産地は
和歌山市を中心に旧海草郡、那賀郡、有田郡、日高郡に及んだ。
大正の初めに「シャツ屋」「フェンツ屋」の発展が目覚しく、
綿ネル捺染工場の発展に極めて絡みが大きい。
昭和30年〜40年 パジャマ等のナイティー関係に加えて、
外衣の婦人・子供服、肌着の生産始まり
廉単価の量産一般品においては全国的な重要シェアを占める。
昭和49年の石油ショックを契機に市況の低迷期に入り、
昭和54年9月に和歌山県被服布帛製品協同組合、和歌山県婦人子供服協同組合、
和歌山県縫製産業協同組合、海南縫製共同組合、の4団体が合併され、
業界の活性化を図るために当組合が設立されました。